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  • 想いの更衣

    2013.09.07 08 ずいぶん涼しくなった

    P!nk – Fkin’ Perfect でスタート。「You’re f*ckin’ perfect to me!」のFkin’は想いのマグマ。内部であらゆるものを溶かす。「私にとってあなたは完璧」の「完璧」は辞書の意味ではなく、自分で編んだ言葉の意味だとしたら、誰かにとって綻びだらけでも「完璧」って言えるユニークな情感を包容する。

    二十四節気、白露。太陽の黄経が165度。第四十三候、草露白。春から夏にまたがって積み重ねた想いが、木々の葉や草花へ降りていく。冷やしたものは何かわからないけれど、電子顕微鏡ぐらいの視力があれば、露の表面に己の心情が投影されているのが見えそう。

    旬は秋刀魚。生き急ぐ営みと歩調を合わせて二度食した。脂がのっておらず腹との相性がちょうどよかった。胃袋においしくおさまる按排。それもいつまでかとも思う。50年後、100年後の海。

    ことばをたくさん持っているから情景を豊かに認識する? わからない。笑うから楽しいのか、楽しいから笑うのか。科学は前者を証明しようとしている。ことばそのものが醸し出す気配やことばそのものが伝わる感触は、ことばと認識に連関しているようで、片やそう認めたくない気持ちが加齢の染みのように心にはりつく。

    表現の陰影をつけたくてことばを探す。いつしか世界を素直に直感できず、言葉が先に立つ。言葉に囚われる。感性を心の裏側へ置き忘れる。取りに戻る道筋が記憶から消え、衰えた感性をことばへ転化して補修するが、感性を伴侶にできなかった言葉は語感へ熟成しない。

    土曜日にアルバイトの資料を受け取り、夜から入力開始。日曜日は終日。黙々と入力して肩と腰がキュウキュウ鳴いている。頭、足の指、手の指、肩と腰。喉(もしくは食道?)から肺あたりへの違和感、乾いた咳。あげればきりがない個々のパーツが綻びはじめても「全体」が誤魔化して体躯を駆動させて、少しでも急ぐ。はやく空っぽにしたいらしい。

    辞書の意味から少し距離を置いた自分だけの言葉がある。たとえば私なら「最適」だ。最適を使う時、辞書の意味とはやや異なる意味を込めて使う。伝わるかどうかではなく、語感への思い入れみたいなものかな。

    もう一つ。辞書の意味からずらして使いたいけれど、まだ自分だけの言葉にほぐしきれない単語がある。文脈のなかにはめ込めない、使うと、その単語の意味は奇形を象ってしまい、伝わる伝わらないの階層にすら降り立たなくなる。いま使うとしたら「冷静」か。

    冷静になってきた。そう書くと、落ち着いてきたようであり、そうではない。冷めてきた、と言えば気持ちを抉りすぎてる。

    熱情を抱擁していた服装が透明から色彩を帯びたものに変わりつつあるような冷たさ。

    冷めていく、醒めていく、褪める想いの更衣。それを冷静や冷たい、冷徹と言い表したい欲望と、それだとまだ自分の身体が表現を追い越せない余裕のなさが露呈する躊躇い、との駆け引き。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • 嘘と虚構と現

    2013.06.10 晴れ
    http://www.youtube.com/watch?v=AbbBK7HeCBQ

    The Miceteeth – レモンの花が咲いていた でスタート。わざとはずして歌ってるの? って勘ぐってしまうよね。上手下手に関心ないからOK。なんていうか、ライブパフォーマンスっていうぐらいなんだから、「表現」がすべて。舞台の表現が自分に響けば、自分が気に入れば、周りが何を評論気取ろうがお構いなし。レビュアの文章読んで本買うのってあんまりしたくないから。

    第二十六候 腐草為蛍。湿度が高くなる。蛍が舞う。守山では美しい風景が見られるらしい。一度行ってみたい、という口癖は控え目に。行ってみ「たい」から”い”を取りのぞかないと。そういうことを意識して丁寧に営む道にさしかかっている。

    旬は伊佐木、縞鰺。いまや魚もファスト。”ファストフィッシュ”が貼られる。調理しなくてよい魚。魚、といってよいのかためらいつつ。レンジでよろしく、フライパンでアレンジでもどうぞ的。

    近所のスーパに限ると、魚を買う人が少ない印象。新鮮でないからかもしれない。そういえば開店してすぐの7:30ごろにいったとき、産直の魚は確かに綺麗に見えた。目利きできるわけないから、「あっ、きらきらしてる」って単に感じた程度。ああいう魚が常に並んでいたら買うだろうか? そんなことをつらつら思いなが売場をぶらつく。

    部屋から見える紫陽花の風景が日に日に変わる。驚くばかり。自然の精密なプログラム。指示されなくても法則に従って自律プログラムが機能している。雨が少ないのにどうなってるんだか不思議だけど、数日、目を離せば、変化した形に記憶が追いつかず、あわてて書き換えている。

    書店で “子供の科学 2013年 07月号 [雑誌]” 誠文堂新光社“集合知とは何か – ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)” 西垣 通 を購入。Kindleで“「いいね!」時代の繋がり―Webで心は充たせるか?―” 熊代 亨 を購入。

    琵琶湖

    人は最初に自分に嘘をつく。嘘とは言えない微細なごまかし。日々の私が私を見失わないための栄養補助食品。それを嘘と呼ぶか否かが、感情のきめ細かさを判定するリトマス試験紙。違うかなぁ。それだと「どっち」かだけになっちゃう。

    ほどよく摂取していれば効果を期待できる。過剰摂取は何かしら害を与えかねない。嘘と言いにくい自分につく嘘は、嘘自体が嘘になれてしまえば、自ら嘘か真か判別できなくなる。周りに害を与えかねない、と思ういつつ、ひょっとして嘘と真の淡い交わりを巧みに操る人なら周りに害を与えなかったりして?!

    事象の50%以上を嘘で繕えば嘘臭い。95%以上は真、残りの5%以下の隙間に嘘を挟み込め。そしたら嘘は消臭されそうだ。

    書きながら思いつく。嘘と虚構の差異は何ですか?

    有名人を好きになりすぎて、もうどうにもならないほど好きで好きで、すでにその有名人と自分は結婚して、生活して、子供がいて、とかまでリーチした人が世間にいらっしゃっても嘘ではない。平均的な営みからわずかにはずれてマイナな方向へ進んでいるだけだ。誰かに危害を加えてなければ、として。

    そういう場合、自分に嘘をついているの? その生活は虚構?

    さらにモノローグから脱皮して手紙を書き、私にはあなたの子供がいて名前は某で大事に育てています、な内容を送ったら、この際、受け取った側の反応は無視するとして、嘘か虚構か現実?

    気になって検索したら、“文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)” M・スコット・ペック のがあるのね。

    シンプルな単語ほど、数千年前から人を引きつけてきただな、きっと。

  • たとえ相手が怒りの起点でも最後は自分への怒り

    2013.06.03 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=x1oMPNya0cI]

    ソウル・フラワー・ユニオン – 風の市 でスタート。高揚させてくれる音ってあるよなぁ。歌詞は切なくても音が軽やかだったり。反対に歌詞は顔を上げて見据えているのになぜだか音はやや抑え気味みたいなのも。音楽って不思議だ。

    怒り、について考え続けている。怒りの根本や怒りの脳研究について一冊読んでみたくなる。主観を掘り下げられても何か足りない。

    幾つもの怒りがある。状況によって怒りの濃度や種類は異なる。激怒、憤怒、立腹…. 漢字もいろいろ。ニュアンスを広げたら、嘆息や嗤笑にも怒りの匂い成分が入っていそう。

    誰かが起点になって怒りを誘発したら、当初の怒りは相手にむけられたものだ。でも、私の場合、その怒りは直に収まり、どちらかというと自分に対する怒りが長く続く。

    相手に頼ってしまったがゆえに、自分の描いていたとおりにならなかった腹立ち。もし、自分の想定しているイメージにコトを近づけたいなら、相手に頼るべき点をもっと絞らなければならない。自分がコントロールできたであろう範囲を自分がサボったから招いた結果に対して我に呆れている。

    信用、という言葉は健康的なイメージを従えている。そういったイメージを払拭してシンプルに使うとしたら、相手を信用した自分に対する怒り。

    皇子が丘公園

    もう一つ気づいてほしいのは、自分の周囲の環境が悪いのは、これまでに自分が手を打ってこなかったからだ、ということ。だから、すぐに手を打っても、それが改善されるのは、ずっとさきのことになる。この種の挙動は、「社会」でも「他者」でも同様だし、もちろん「自分」についても当てはまることである。

    “自分探しと楽しさについて (集英社新書)” 森 博嗣 P.140

    再読。「自分」にも当てはまる。手を打ってこなかった。相手の成長(苦手、正直意味がわからない)へ関与したい欲求があったはず。欲求はやがて支配と通底する。

    相手のふるまいが私の心象とずれる。心象にそぐわないふるまいを受ける。現実と心象のずれを知覚する。知覚は支配の基底に到達して怒りのボタンを押す。ずれをずれのまま処理する機能が発育されていない。なんのために先人の知識をインストールしているか、己の未熟を味わう。

    幼すぎる自分。未熟。他者へ関わるのは他者の成長や進化に手をさしのべることではない。他者をそっくりそのまま他者として受け入れ、どこまで輪郭を広げても理解できない他者の有り様と向き合い自分の中でほぐしていくことだと思う。

    自分の「色」に染めるような気持ちを微塵も持ってはならない。微塵はいずれ塊になり怒りの核に居座る。そうなれば私の進化を妨げる。

  • 肉体は老い身体と心は進化する

    肉体は老い身体と心は進化する

    2013.05.07 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9cRbRE9sS_s]

    奇妙礼太郎 – California でスタート。ずっと聴いている。今日も舞鶴まで連れて行った。奇妙くんはライブでアレンジするからCDとまったく異なるしそれぞれのライヴでも違う。先日、SNSでトークしながら頷き合っていた。6月のソロライヴ。カフェでのライヴ。いまからドキドキワクワク。

    5月、5月?! 肌寒いより寒い。立夏、暦では夏の始まりだけど、今日の季節は春先へもどりたがっているみたい。人の記憶は過去に遡れても季節は逆再生できず、人の営みも季節と同じく直線と曲線と弧を描きながら漸進していく。

    一本の桜の木。琵琶湖疎水に咲き乱れる桜から意志を持って離れているかのように存在している桜の木。ひとりで見に行っていたのに、今年は見に行かなかった。ものすごい悔やんでいる。久しぶりの大きな大きな後悔。

    来年も見られると思わないようになりつつあり、絶景と観光地に関心は薄れていくが、半径1km内で繰り返されている自然のプログラムを見ておきたいと感じはじめている。あとは、どうしても行っておきたい土地がひとつあり、そこだけは何があっても必ず行くと決めているし、決めているだけではなく、思い立ったらすぐに行かなくちゃいけないよ、と自分に毎日言い聞かせている。

    shrine
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    朝から舞鶴へ。道中、奇妙くんをずっと聴いていた。 “二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)” 谷川 俊太郎 をぱらぱらめくりながら目に入る文字を追いかける。追いかけて、顔をあげて車窓を眺める。詩と車窓を行ったり来たり。山間の緑のグラデーションにフジが単色を彩り、場違いか溶け込んでいるか、自分には見分けがつかない。この情景を言葉にする人はどんな文を綴り、絵にする人は何色で、写真を撮影する人の構図はと空想して、何もしない人は何を感じるのかな、つらつら緑と紫はスライドする。

    15:30すぎに終わり、亀岡まで移動。帰りの道中、仕事と四方山がクロスした会話は車両の進行と合わせるかのように前へ前へ。会話の時間軸は季節と同じく、直線に進み踵を返さない。できごとを語る時制は過去であるけれど、話の意図が向かう時制は未来。

    18:00から久闊を叙する。5人が集まり今と昔を行ったり来たりする。周りの方々の話を伺い、自分の役割を見つめ直す。お相伴に与りながら、成功へ近づきつつある人たちを前にしたときにうろたえる私を認識する。平常心からはまだまだ遠い。

    今より昔を語る質量が増加したとき、人は自分の年齢を数える。もう少し経てばからだの話が質量の中心を占め、病と健康の単語の使用回数が45度以上の直線を描く。

    肉体は老いる。身体と心は進化する。そんなイメージを持っている。年齢より鮮やかに演出するために肉体を手入れする。大事なことだ。ただそれに苦心するあまり、身体と心が退化してしまったとき、動く塊になるかもしれないと怖れている。

  • 素直に営む

    2013.04.27 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。前夜のライブの余韻が残ったまま、手に入れた HOLE IN ONE を iPod へほりこんで、リピートリピート、リピート。もう、追いかけますよ、これからずっとずっとずっと。サイコー!!!!!

    前夜、奇妙礼太郎くんのライブへ行った。SNSで知り合った方から教えてもらい、YouTubeで視聴して、一瞬で鳥肌が立ってざわざわしてそわそわして、CD買って、また視聴して、何度も聴いて、歌詞を熟読して、列車のお供に連れて、部屋でまったり聴いて、の生活があって、ライブへ行きたいと思っていたら、弾語TOUR 大阪追加公演してくれたので、行ってきた。

    はじめての生声を聴いて震えた。Twitterのほうでもさえずったけど、ライブで泣くことってあると思う。涙は、好きな人や辛いこと、楽しかったこと、いまの想いや、あのときの思いとか、いろんな ‘何か’ とリンクしている。その何かは人の数だけある。

    はじめて知った。ただこぼれる涙を。喜怒哀楽ではない、眼瞼からこぼれる涙。その涙を表現する語彙をまだ僕は持ち合わせていなくて、これから奇妙くんのライブで探していくことになる。そう思えるだけでざわざわして、唯一無二の声に集中しようとしたら、あの苦しそうな、喜んでいそうな、軽やかな、激しくて、優しい、躍動感にあふれる口に集中できなくて、口に集中したら、歌詞に没頭できない、歌詞に傾けたら、あの指を見られない、首筋にも目をむけないといけないのに、全身へのめり込まないといけないのに、ってもどかしさが募る。

    ほんとに行ってよかった。教えてくれた人にTwitterでお礼を述べた。∞のありがとう。

    ユキヤナギ

    11:00前に出発して神戸へ。院内LANの設定。前回は失敗したのでやや緊張モード。失敗の原因は判明している。ただしこちら側で解決できないので、ハードウェアを管理している業者さんへ設定の変更を依頼した。こういうパターンの仕事は苦手。原因は判明していても、解決手段はこちらない。もし、私の依頼した内容が正確に伝達できていなければ、院内LANの接続は失敗する可能性が高い。

    心音高鳴るなか、13:00から設定をはじめて、15:00前の終了。1点だけ解決できなかった。私にはどうしようもない問題だったけど、先生はその問題解決をもっとも強く望んでいらっしゃったのでマイッタ。どれだけもがいても、こちらで解決できる事案ではないので、私から業者さんへ依頼することで了承を得た。

    子供の頃から人への好き嫌いがありすぎて、親から注意されて、先生からも諭されたけど、やっぱりいまだにありすぎる。ほぼ直感で好き嫌いを仕分けしていて、嫌いは瞬間って感じの嫌いだし、大体、はじめてに近い状態で、あっ、ダメだみたいに感じる。ようやく露骨に顔に出さないようになってきたと自分では思っているけれど、端から見たら酷いかもしれない。

    ところが自分でも驚いたことに、徐々に嫌いになるってあるらしい。たぶんこれまでもあったのかもしれない。知覚できていなかっただけもしれないけれど、いまはあきらかに認識できている。

    自分のなかで発生したこの認知の過程を自分で分析できないけれど、自分にとっては好機であり、できるだけその時々に脳裏によぎった言葉や気持ちを備忘するようにしている。

    SNS界隈は、大人って…..についてあれこれ綴られていて、みんなそれぞれの悩みや思いや、苛立ちや不安や期待や、願望がある。100年ぐらい前の41歳は、ひょっとしたら隠居しているかもしれないし、いまの自分のように未熟ではなかっただろう。数年前は未熟や成熟、大人って…..ってみたいなことも患っていたが、いまはだんだんなくなってきた。よいのかどうかわからない。それよりも「素直」についてもっと探究してみたいし、もっと素直に営んでいきたい。

  • 思考と感性よりも、目で見たモノがすべてと思い込む

    2013.04.24 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FcWGdkoo0Fs]

    東京スカパラダイスオーケストラ / Pride Of Lions でスタート。めっちゃすき。日本語訳の歌詞も好き。掃除や洗濯でこれ流すと、体が勝手にスイング、朝からアゲていけそうな錯覚だし、凹んでいるときにながせば、眼瞼の裏にためこんだ水分をからりと流してさっぱりできそうで。

    SNSの環境が日常になったときに、情報は一瞬で伝達される。ボストンマラソンのテロでは、大手のメディアは時速でSNSに遅れをとった。テレビや新聞を中心としたメディアは、速報や即時についてこれからもずっとSNSに追いつけない。追いつく必要もないと思う。

    一方で、Twitterのアカウントがハッキングされてデマが流され株価が一瞬で暴落するようになった。

    バスのなかで障害者の子供と母を罵倒する乗客がいて、その乗客たちを運転手が一喝して降ろさせた、なんてデマが一瞬で「いいね!」されてフィードに流れてくる。

    1999年に購入したマクドナルドのハンバーガーを14年もの間保存し続けるとこうなる(GIGAZINE) – 海外 – livedoor ニュース を目にして、見たモノがすべてを味わった。

    写真を見て疑ってみること。包装紙とレシートが1999年だとしても、なぜ「中身のハンバーガーまで1999年」と判断できるのか? パンがなぜあんなにふっくらしているのか? 水分は? 黴の発生メカニズムは? などの疑問が浮かぶ。

    「いま」「ここ」で撮影したかどうか判別できない写真であったとしても、見る側は、「いま」「どこ」の視点から視線を送る。何かの記事で読んだが、Facebookでたまたま豪勢な食べ物の写真がアップすると、贅沢な生活しているように人は受けとめたりするようだ。

    タイムラインに流れてきた食べ物の写真へ、「こんな時間に食べたら太るよ」とかのコメントが寄せられている。深夜にアップされていたからだ。

    この感覚が普通なのかもしれない。ウェブサイトの制作でも参考にしなければならない。少数の疑念より多数の誤解が「正解」なら、時にその正解を採用したページを作らなければならない。

    ユキヤナギ

    ネットの情報でも鵜呑みされてしまうんだから、編集されたニュースの映像を見て喜怒哀楽を表現する人は多いだろう。向こうは編集のプロだ。意図や願望、希望や期待をインストールして編集している。一般的にプラスのイメージを伴う単語を使ってみたが、そんな微笑ましい様相ではない編集があっても不思議じゃない。

    そして、何よりも一番恐れているのは、自分だ。「自分はいったん立ち止まって考える」から騙されない、引っかからない、と自覚している時点で、すでに騙されて、引っかかっていると思ったほうがよい、と自戒している。

    「騙されない」「引っかからない」という視座からしか物事を眺めなくなる。

    視座と視点を固定させて、いつのまにか、その定位置にこだわるようになってしまうと、環状線の縦座席で駅弁を食べたら違和感があっても、新幹線の横座席で食べてもおかしくない、と納得してしまう感覚が養われている。なかにはどちらもおかしいと言う人がいたほうが、僕は健全だと思う。

  • 最小単位は二人

    2013.04.07 雨時々曇

    今朝は サヨナラCOLOR – SUPER BUTTER DOG でスタート。歌詞は過去と結びつけ、自分が感じたいように感じ、喜怒哀楽をブートさせる。具体的な物事や記憶の輪郭を少しだけぼかして、誰にでもあてはめられるような言葉に置き換えられたら、それは多くの人が自分なりに受信できる「言葉」へ変容する。この歌詞もそう。自分の過去と現在に結び付き、たゆたう。

    「普通、孤独は1人のものだと思いがちだけれど、私は孤独の最小単位は2人だと思うんです。1人よりも2人でいるとき感じる孤独のほうが何倍も深い。でも、2人でしかできないこともたくさんある。2人でいれば、可能性が放射線状に広がっていく。2人でいるときの1人のときよりも深い孤独と、2人でいるからこそ見ることができる「次」、その情景を書きたかった」

    SANKEI EXPRESS 2013.04.07 本の話をしよう 「愛の夢とか」川上未映子

    雨と風が鳴っているなか珈琲を飲みながら読む。頷いた。頭のもやもやをすっきり。言葉のプロ、物語を描くプロの力を味わう。

    最小単位は2人。

    ひとりでいれば孤独を感じにくい。感覚は孤独より孤立に近いんじゃないかな。ひとりの時間に培われた感覚や直感や、考えていることを、2人、あるいは複数の「円」へ運び込んだとき、孤独を実感できる。それは僕にとってネガティブではない。独我論の絶望(これもネガティブなニュアンスを持っていない)のなかで、自分が見たいものしか見られず、目の前にいてる人が、僕と同じものを見ているとは思わない。その様態を理解できたとき、健全な深い孤独がある。

    健全な孤独から他者への関心がはじまる。なぜ同じ世界を見ていないのか? 素朴な疑問。

    素朴だから解き方がわからない。どこから解けばよい? 解はそこらへんにころがっていない。ならば書を頼りに知識の空間へ足を踏み入れる。そこは他人の世界である。歌詞と同じく、一般化された事象を自分なりに解釈して納得する。納得できなければ、空間の奥地へ進む。他人の世界の奥地へ進む。納得できるまで。

    他人の世界の奥地へ進み、あちこちに立てかけられている道標の前に立つ。道標は知識であり、知識は思考の種子だ。種子が欲しくていまだに彷徨うけれど、思考は名詞なんだ。

    IDEOは動詞を観察する、という。人や物を観察するとき、名詞ではなく動詞を観察する。

    近江神宮

    考える。動詞だ。考える、ことは他人の世界の奥地にある道標を拾い集めず、自分の世界に道標を立てていく行程だろう。自分の世界の道標は、自分の世界でしか通用しない規則や言語がある。

    二人が見ている景色が違う。そんな実体へ素朴な疑問をぶつけ、疑問を解くために「自分」へ突き進む。自分だけの規則をつくり言葉を組み立て、自分だけの景色を描く。その空間に果てはない。でも、果てをめざす。

    果てをめざしていくなかで、「自分」そのものへ疑問を持つ。少しずつ少しずつ「自分」へ膨らむ不思議。

    いまはわからない。感触としてつかめているだけ。僕の土壌に五感の種子を蒔いて「考える」なかに「自分」があり、「自分」がどんどんわからなくなっていけばいくほど、「他者はわからない」ということへの不思議さは薄れていく。

  • 比喩

    2012.07.12 雨のち曇

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=wEwNcnklcsk]

    今朝は Chicago – Hard To Say I’m Sorry でスタート。これを聴いてなにかの記憶とリンク人は「80年代でOKですよね?」ってニッコリしてしまいそうです。ちなみに私はこの曲と中学時代の一世一代片思いがリンクします。

    九州の被害を伝える報道を読む。痛ましい。そのなかで「これまでに経験したことのないような大雨になっている」という予報の表現を目にした。わかるようなわからないような感覚。「東京ドーム○個分」を思い出した。あのたとえが苦手だ。

    東京ドームの面積を知らないから何個分と伝達してもらっても対象の面積を脳裏に描けない。いったん東京ドームの面積を調べる。それから倍数を計算して面積を算出する。で、自分の近所だと「どこからどこまで」かとイメージ。一手間かかる。はじめから単位の面積を教えてくれたらよいのに。そちらのほうが一手間かけずに計算できる。近所の面積と比較しやすい。

    「これまでに経験したことのないような大雨」も誰が経験したことないのか気になる。対象地域なのか日本全体なのか。一度その雨量を経験したら次はどうするんだろう。

    わかりやすく伝える意志を受信できる。ただその意志がかえって関心を削いでしまっている、と感じる。列車のアナウンスもそう。外国人がアナウンスを聞いたら「これだけ何度もアナウンスがあるのは重要な情報を伝達している」と思ってしまわないか。気になってしょうがないのじゃないかしら。

    表現が言葉に依存しすぎてやしないか。もう少し言葉の比率を下げてみたらどうかな。あるいは長文のテキストを読み上げないで短い単語で伝達してみては、と。

    JR大阪駅通路の広告

    JR大阪駅通路の広告。多くの人の目に触れて目に止まったはず。そのなかで知覚を刺激された人はどれぐらいいらっしゃったのか想像しながらパシャリ。「西日本最大級」って単語が削られていたら僕の好みにさらに近くなる。

    15:00から打ち合わせ。前回Kさんに同行していただいた先生と奥様と私。写真を拝見する。息をのむ写真。診療所の躍動感と立体感が表現されている。透明感。ひとりひとりの構図の物語。写真の力を再認識できた。これらの写真を最適な位置に配置して、ほんのわずかな言葉をそえてあげたらす素敵なウェブサイトになるだろう。

    ほんのわずかな言葉を練り上げる。診療所で通信する文脈からキーワードを抽出してつなぎあわせる。言葉だけでは不充分。写真だけではやや薄味。ちょっぴりの味付けがほしい。ユニークな言葉の味付け。

    写真をこよなく愛する方々は「味付け」と聞いてご立腹されるかもしれない。失礼かも。写真が語っている、と。それにあえて味付けするんだから緊張する。

    ぶっとおしの3時間。濃密。診療所を失礼した後、頭が養分を強く欲求していると自覚。強烈な欲求。

    移動して19:00からF先生と打ち合わせ。ファシリテーションがわからない。どんなふうにすすめていこうか、輪郭を描けない。少し困った。こういうときは手を動かした方がよいかな。とにかく出力してみよう。20:45に終了。

    帰りの車中、昼間の打ち合わせをふりかえる。いくつか失礼な物言いを頭のなかで書きだした。所作を思い出す。どうしてあんな言い方してしまったのか。記憶を頼りにトレース。あの時の心情をふりかえる。あのときの所作を再現する。どんな顔していたか。自分には見えない。見えないからこわい。油断した単語の選択が重大な失敗の結果を招く。なにげない単語が相手の心身に強い痛みを与える。深く傷つける。傷つけることを恐れたらだめだけど、単語の選択にもっと注意を払わなければいけないな。あと自分の無意識の動作に驚いた。先入観を持たずに聞いているつもりでもやっぱり持っている。ほんと難しい。

    キース・リチャーズがインタビューで「俺たちは上品に衰え、優雅に死ぬんだよ」と語った。上品に衰えたい。

    もっとおだやかに。もっとすなおに。もっと冷静に。もっと冷たく。

  • 経験に軽く中指を突き立てる

    2012.06.04 曇

    今朝は Esperanza Spalding – Radio Song でスタート。“Radio Music Society” Esperanza Spalding を購入してパワーローテ中。

    週末に資料が届く。アルバイトの入力作業。何も考えず作業できるのに頭は別のことをしたがる。入力作業や文章作成は苦にならない。性格は関係しているか否か、知らない。自己分析によると、入力系やルーティンワークとの相性はよく、クリエイティブ系との相性は芳しくない。

    06/02(土)、枕の保守・点検のためにイオンモール草津へ行く。物は試しに浜大津からバスに乗った。お年寄りの気持ちをわずかに理解できた。便利だ。そして不便だ。身ひとつを勝手に運んでくれる。けれどバスの本数は少ない。1時間に1本もない。

    エコというなら車に乗るなってロジックは乱暴だし、そのロジックをふりかざしながら多様性をシュプレヒコールする非論理的な態度になるべくタッチしたくない。

    願わくば、バスの本数がもう少し増えてほしい。バスをコンパクトにして増便できないかしらと素人考えが浮かぶも諸経費は大差ないかもな。根本は利用者数でしょう。

    最後の言葉に思いを巡らせる。“最後だとわかっていたなら” ノーマ コーネット マレック を繰り返し読んで英語を学習している。最後が準備されているなら精神を集中して言葉を選ぶ。だけど、用意周到な最後は少ない。最後の言葉はいまここに立っている人へ解なき試練を与える。最後の言葉といっしょに表現するのは何か。笑い、嘆き、怒り、様々。それらが何であるかが、いまここにたっている人にとって大切なんだ。

    別れは肉体だけにあらず、精神もあるかもしれない。その気になって探せば探せない人はいないと思う。だけど、「その気になって」まで探すかと問われたらよほどであろう。「その気になって」まで探したい人を精神に付着させる。

    朝、出勤して、いつものように会えると思っていたら、もう別の場所にいて、しばらく会えない。そんな別れがある。最後の言葉に近い質感が、去った人と残された人の両方を包み込むだろう。どんな会話をかわし、いかなる表情が互いの記憶に刻まれたか。

    もしバクテリアが私の肉体をすべて分解して白骨の屍にしてくれたとき、その時、誰といつどんな言葉を交わしたのが私にとって最後の言葉であったか、と想像してみる。時制が混信して複雑な感情が交錯する。時折、目にする記事を私にトレースする。

    経験がすべてだと思わない。言葉で積み重ねる空想の世界は想像主の現実かもしれない。経験やもしれぬ。肉体を動かして知覚した現象が意味と連関した行為作用だけが経験だとしたら、僕はそんな経験に中指を突き立てる。

    すべての言葉と想像のインターフェースを超えられない妄想は、人間に等しく与えられた素晴らしい才能だ。言葉を紡いで空想を重層的に展開しても、想像の埒外にある出来事が起きる。そんなとき、言葉と妄想を編み込んだ服を着た人は、他者にやさしくおだやかになれると信じている。