タグ: thinking

  • 高飛車よりも歩でありたい

    2011.12.30 晴れ

    生活に弾力や抑揚がないので平常運転。クライアントのアクセスログを分析。アクセスログはサイトの事実を提示している。そこからサイトの不備を洗い出して対策を立案しないといけない。この作業が厳しい。仮説の塀を慎重に歩く。先走ると妄想の側へ転がり落ちる。

    先日、高飛車であることを自覚するには何を気をつけたらよいか考えた。高飛車を自覚するのにもっとも必要な意識は何か? 言葉遣いかな。無知の知か。

    違うなぁ。言葉遣いは必要条件? ではある(用法を間違えていたらはずかしい)。ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)をクリアしていていても居丈高である。適切な敬語 (講談社学術文庫)を選択しても嫌悪感をいだかせることもある。なぜだろう?

    自分が中心なんだろうな。推測に推察を重ねて臆測の推理。

    他方で私が高飛車と受け止める。だったら影響を受けずにスルーしたらよいのにとも思う。よしんば周りも高飛車だと感じたら、私見は客観性を高める。そうであってもスルーしたらよいだけなんだ。高飛車だと判断したがるのは、私が相手に執着しているか関心をいだいているから、影響を受ける。

    自分を捨てられていない。もっと言葉そのものだけに意識を集中させて判断しなければならない。評価しなくてもよい人を評価したがるから高飛車と感じて動揺してしまう。そんなふうに自己分析した。

  • 憍奢

    2011.12.19 晴れ

    今朝の目覚めは音楽ではなく、Google制作のビデオ”Zeitgeist 2011: Year In Review”から。暗闇のなか世界を感じてスタート。

    冬至まであと少し。夜が長い。5時ごろに目を覚ましても真っ暗。いつものように目覚めにお水500mlを飲んで朝の勉強、支度、朝ご飯の用意、結露を拭いて、ひととおりの作業が終わってからミルで豆を挽いて飲むホットは最高だ。

    Windows 7(professional 64bit)をMacBook ProにBootCampでインストール。仮想環境のWindowsより速いからありがたい。起動後の画面に戸惑う。わからない。自分の知識はXPまでだった。

    PDCのSambaへWindows 7をドメイン参加させたい。どうしてもできない。セキュリティのローカルポリシーを設定したみたけどダメ。ネットワークとアカウントの管理方法がよくわからない。

    PDCのSambaを停止してFreeNASのSamba(スタンドアローン)を起動させるとブラウジングできる。ということは、PDC側の設定に問題ありか。

    知識の習得を怠ると、問題を切り分ける能力が確実に低下する。

    国産のきくらげが手に入ったので、豚肉と卵とねぎで炒りつけた。卵をふんわりしあげていったんお皿へ。豚肉の下味は塩と胡椒。少し炒めてお酒で臭みをけしてからキクラゲといっしょにおオイスターソースで味付け。最後に葱と卵をもどしてさっと炒める。まぁまぁのデキ。

    高層ビルのマンションの広告がポストにはいっている。たいへんだなぁ。100〜200年後、どうやって取り壊すんだろうか。破壊の技術が進化してより簡単に取り壊せるとしても、その頃の日本は、東京以外の高層ビルをメンテナンスできるのかな。いくつかの県は、「自然」になっているかもと想像する。東京以外の高層ビルは水栽培の農作物専用建物になってもおかしくない。といっても立脚地は日本人という固定観念だから、それを取り払えばまた異なった風景が頭に浮かぶ。

    時間を基底した創造は、想像の範囲を超えられるだろうか?

    正法眼蔵随聞記 六 二十三 学人各々知るべし

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.401

    残りあと一つ。最後を前にして二十三は奥が深い。おごり高ぶるなという教え。おごり高ぶるな、というだけだとあたりまえのようであるけれど、ここに書かれた道理を読むと、「親切とは何だろう?」と考え込んでしまった。

    貧しい家の前に車で通り過ぎてはいけないとおっしゃる。自分が正しく知っていることを相手が間違って理解していても、その間違いを言い立ててはいけない。

    本人はおごり高ぶる気持ちを持っていないからといって何の心もなくふるまうと……?

    人は相手の心をコントロールできない。そうわかっているはずなのに、相手の心をコントロールできそうな錯覚を抱いて接する。相手がどう感じるかを予測する行為そのものがコントロールの入口にたっている。

    信頼とは、その錯覚が形成する強い幻想によって構成された現実の関係なんだと思う。

  • 威儀

    2011.11.02 晴れ

    [youtube=http://www.youtube.com/watch?v=wkEeNpWMvgk]

    4年前、彼女は手術を受けた。私は彼女の病室へ通って1時間ほどおしゃべりして帰る。4日目、彼女は一枚のハガキを見せてくれた。病室から望む景色が描かれていた。絵の表現力に触れた瞬間。彼女の眼にはこんなふうに映るのかって感じた。1時間の間に交わされる数百の言葉よりも一枚のハガキが目に焼き付き記憶に刻印する。

    そのとき聴いていたアルバムは“コリーヌ・ベイリー・レイ リミテッド・エディション” コリーヌ・ベイリー・レイ で、お気に入りは”Put Your Records On”。いまでもこの曲を聴くとアタマのなかで映像が再生される。音楽と記憶は親愛なる関係。

    ヒトはどんな経緯から音楽と絵を創造したんだろう。私は音楽をやらないし絵も書かない。聴く、見る側。音楽を好きかと言われたら躊躇する。周囲で見かける音楽好きの人に比べたら質量ともに劣っている。ましてや、音楽をやる側の人に対してアタマで解釈するなんて失礼すぎる。どんな場であっても、音楽を創造している人は、感情と向き合っていると慮る。

    絵に対して心が打たれたり涙を流すような繊細な感覚を持ち合わせていない。どんな絵でもぼぉっと眺めている。街中で絵を描いている人はステキだなぁ。どんな絵でもかまわない。絵を創造している人は豊かな空間を大切していると想像する。

    イオンのレジで並んでいる時、すぐ前の女性がとてもかわいくて見惚れてしまった。ガン見は失礼で怪しい行為と承知している。のに、ついつい見惚れてしまった。

    女性はビールを1本精算していた。レジの店員さんが抽斗からA4のシートを取り出して彼女に提示した。

    年齢確認らしい。確認のシーンを初めて見た。確かに童顔であるけれど、自分には20歳未満に見えなかった。彼女はお財布から証明書のたぐいを見せて声に出して読んだ。’78年。卑しくも暗算してしまった。愚かなワタシ。

    見逃さなかった。

    お財布から証明書を取り出すとき、うつむき加減の彼女はニッコリしていた。家政婦は見た気分である。ちょっぴり嬉しそうな感じの笑顔でそれがまたドキンってさせられてしまった。なんだろ、私のようなオッサンが実年齢より若くみられたときのドヤ顔的ガハハ笑い顔ではなく、恥ずかしさと嬉しさが絶妙なバランスで釣り合った微笑。

    正法眼蔵随聞記 五 九 俗人の云く、城を傾くる事は

    正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.319

    「城を傾クる事は、うちにささやき事出来るによる」とおっしゃる。味方の中に内証事が出てくると城は危うくなる。一家のうちで意見が対立すると針を買うこともできないけれど、対立がなければ黄金でも買える。

    互いに悪いところは注意をしあい、よいところはとりあって同じように学ぶ。

    あたりまえの事だ。なのに実践できない。どうしてだろう?

    誰々が何々をすると非難している人が、他者から自分のふるまいを注意されても改めない。無視するか、言い訳するか、言い返すか、ふて腐れるか、泣くか、怒るか。どこの集団にもある光景。

    やがて注意されなくなり、他者を非難することをあきらめる。それぞれが見えない境界線を引いて見える距離感を示して、「互いに悪いところは見過ごして、よいところをわかってくれる人」が互いにくっついて、その中で他の悪いところをささやき合う。

    先日、正法眼蔵随聞記を読了した。孤独はかけがえのない尊い大切な存在だって痛感した。孤独と向き合っていける心を涵養したいな。

  • あなたへ

    2011.09.01 曇時々雨(強い雨も)

    以下は断定している。けれどすべて「思う」がつく。

    大阪の地下をひとりで歩く。誰もがまっすぐ歩いている。狂気だ。 雑踏のなか、みんなと同じようにまっすぐ歩いている自分に気づき、心の秒針が左へ回りはじめる。狂っている。

    狂気と正気。

    ラベルである。誰かが状態を認識したいから、ラベルに正気の文字を書く。正気と書かれたラベルを一枚一枚丁寧に世間の至る所へ貼り付ける。ラベルは人を無痛へ導き、安心させる。世間は狂っていない。それが合い言葉。

    私は心の中でラベルを剥がす。剥がしてもいきがらない。いきがりたい衝動をおさえる。抑制は毒へ。毒のさばきかたにまごつき疲れる。

    至る所に貼られたラベルが目についたら、そっと剥がす。もし、言葉で狂気と正気を表現しなければならないって迫られたら、示そう。

    世間が狂気であり世界は正気なんだ、と。

    正気と書かれた世間のラベルを一枚一枚丁寧に剥がす。ほら、私は剥がしたよ、って誇らない。静かに剥がしてごみ箱へ捨てる。ごみ箱へ捨てられたら、”いま”が五感を刺激する。

    他人は世間をつくり、私は世界をつくる。

    正気と狂気のコイン。他人がコインをトスして判定する。長方形の部屋。格子窓がひとつ。壁の色は白。部屋の住人は壁に表現している。自分の糞尿で。手で糞尿をつかみ壁に塗りつけて表現する。部屋に踏み入れた人は、「狂気」を上にしたコインを部屋のテーブルに置いた。表現している人は、コインそのものを持っていない。

    私は糞尿を手につかんで表現できない。だったら正気か? 正気と狂気のコインも持っていない。持っていない代わりに誰かにコインを差し出す欲望を制御する。制御できない。欲望が私のなかでもつれる。両者の境界は私の中にない。誰かが境界に線を引く。

    他人は己の理解の外側にいる。外側は私から見えない。追いかけても「外側」と記された領域はない。そも私は理解しようとしてない。世間をおそれずからかわず。あざけり笑わず、媚びない。因襲の桎梏から逃れられない。逃れなくてよい。世間のなかにいる自分の躰に色を塗り、見つけてもらいたいか?

    ほんとうのとんがったまともな人がいるなら、無色透明である。だから世間は気づかない。ある日、世間は無色透明の存在に気づき戦く。とんがってまともな人の「言葉」は、コスモスとカオスが同時に成立している。

    世間は言葉で理解しようとして畏怖の念を抱き、拒んでしりぞける。

    自分を潜ろう。深く深く。他人から見た私、私から見た他人、どちらにも心はひかれない。私から見た私。自分のことだけに心がゆさぶられざわつく。パラレルワールドでは誰かが別の「仕方」で潜っている。潜れば、潜っている誰かの存在に気づく。仕方は違う。その時、他人とわかりあえるなんてありえない、とはじめて気づく。それが正気と絶望のスタートライン。

    スタートラインへ立つ。踏み出す。行き先は知らない。私は私の仕方で潜る。あなたはあなたの仕方で潜る。わかるわけない。わかりあうわけないって、お互いが認められたら最高だ。それがかけがえのない宝物。宝物さえあれば、お互いにかみ合わない話を「眠る」まで続けられる。ずっと。

    パラレルワールドで潜っている存在に気づけば、ひとりではない。

    自分を潜るために生きる。死んでも潜れるかもしれない。知らない。生と死のどちらが楽かわからない。ただひとつ、死んでみなければわからないと思っている。それまでは潜る。生きていれば、おいしいごはんを食べ、うまい酒を飲み、好きな音楽を聴き、好きな洋服を着て、行きたい場所へ出かけ、気の向くままにぶらぶらする。人を好きになり、好かれる。時に尊敬され、尊敬する。それらはすべて喜びをもたらしてくれる。

    何気ないことのほうが生を教えてくれる。記憶に残らないわずかなことが生を感じさせてくれる。

    喜びは一瞬。

    苦しみや憂い悲しみのほうが多い。望んでいてもいなくても絶たれる。1%の喜びのために99%の苦しみを味わっている。命綱は、あやういバランス。いつこわれてもおかしくない天秤に躰と精神をのせて釣り合わせたくて、毎日決められた時間に決められたことを淡々とこなす。

    やめたくてもやめられない。否、やめるやめないんじゃない。そんな綺麗事で片付けられない。向き合っているだよね。

    生きているから体温と臭いを感じられる。

    まだまだ書きたいけれどやめよう。続きは、お互いそれぞれの仕方で自分をもっと潜ってから。扉の鍵はベンチ。

    私はあなたの”そのへん”をうろうろしている。適当に扱って。

  • 寝床

    2011.02.13 曇

    39歳になった翌日、はりつめた気力を解放したら身体は一気に崩壊したみたい。朝から一日中寝ていた。

    匂いがない世界。イヤだ。生きた心地がしない。

    匂いは生存の危機を知らしめてくれる。身体の機能が損なわれたときに実感する。無味無臭、という広告はコワイよな。匂いで判断できなくなるなんてお断り。

    結局、一日寝ていた。崩壊したまま。腰と背骨を痛めつけただけだ。上着を3回着替えた。水分を摂取していないのにこれだけ汗をかくんだな。水分で構成されている身体を実感。

    損なってわかる、安定よりも不安定の時にわかる。ゆらいでいる時のほうが感覚はしっかりしている。

    一体何を書いているのかわからなくなってた。利用されているならよいけど。消えるし。どうでもよくなってきた、さ、また寝よ。Twitterには入っていると思います。

  • 形質

    2011.01.19 晴れ

    小寒から大寒へ。ここのところ朝の寒気は強い。二三日前、寝室の窓枠が凍結していた。結露を拭こうとしたらシャリシャリ鳴る。チルド室にほったらかしの食料みたい。外側ではなく内側。

    朝からジャニス・ジョプリンを聴く。生きていれば68歳。Janis Joplin, Jimi Hendrix, Brian Jones , Jim Morrison, Kurt Cobain, Robert Leroy Johnson, そして尾崎豊。27歳の死

    コンピュータグラフィックは68歳の現在を描ける。今なら3次元化も。68歳のレジェンドにリアルを感じられるかな。ネット中毒の僕はムリだなと思う。ムリだな、がリアルとバーチャルの間に補助線をかろうじて引く。極めて細い線。もう破線だろうとも思う。それでも27歳の死から68歳のシミュレーション”生”に形質を感じない。

    朝からジャニス・ジョプリンを聴くと、いきなりニュートラルからトップへギアチェンジして仕事できるか、その日は一日仕事をしなくなるか。どっちかしかないな。どちらを選ぶかは自分。迷うことなく前者。だってアルバイトの資料が届いて必死。終日、入力。

    ジョブスの発表はアップルの株価に影響を与えた。現在の身体の状態は極秘中の極秘。たとえ医師から先行きを伝えられていたとしてもティム・クック最高執行責任者ですら知らされていないかもとも訝る(そんなわけないと思うけど)。どうなるか。市場では楽観論と悲観論が交錯。奇しくも(なわけない)、10 – 12月期の決算発表があった。過去最高益。Apple はもうプラットフォームを創ったからジョブスがいなくても大丈夫だ、なんて。そんなわけない、とも反論がある。「投資」への懸念と「才能」への愛惜の比率はいかほどか。

    アップルのちょっとしたドタバタをよそに僕はといえば、来月か再来月、iPhone 3G を解約する。iPod Touch に乗り換える。UQ WiMAX か 公衆無線LANに加入。あとは DoCoMo が iPhone を販売するまで気長に待ちます。

    iPhone 3G を2年縛りの契約で使い続けてきた。この2年間に発表された製品や動作環境をチェックしてみた。SBM や tumblr のメモを読み返す。自分のブログも。だいたいこうなるなって予測できる。そんなものは当てにならない。めまぐるしく変わる。ならば、目紛しさから振り回されない環境と振り回されてもOKな環境を仕分けする。で、対応。そう学んだ。

    変化は漸進的で目に見えない、ってそのとおりだなと思う。十年一昔、なるほどだ。

    自分の身体を眺める。比叡山を眺める。自分の身体はヒトという種である。身体の構造は万人共通。特異性はない。少し拡張したら他の霊長類とも変わらない。定型化できる。定型を客観の箱へ入れたら観察したり分析できる。

    他方、自分の身体が選択したすべての営みはユニーク。一つの行動と選択は独自だし特異。身体は断片化された営みをかき集める。断片の営みを連続した営みへ再構成して生活のタイムスタンプを刻一刻と書き換える。定式化された身体が不定の連続をつくりだす。この特別な行動が、ヒトという種を「人間」と置き換える。そんな詭弁を弄してみる。

    比叡山を下から眺める。四季がある。人工物をのぞけば1500年前の人間も同じ風景を見た。比叡山だけでなく生駒山でも同じだろう。山という定型。

    比叡山の上から琵琶湖を眺める。ファイルが散在している。ヒトが作成した「人間ファイル」。人間ファイルは十年のタイムスタンプを内包している。あるところになくなり、ないところにある。

    不定の連続は漸進的で目に見えない。僕は環境に影響を与え、環境から影響を受ける。目に見えない不定の連続を完璧な刃で切る取る。うまく切り取れたら比較が起動する。不定の連続と断片の定型を比べる。

    そしてわかるんだ。

  • 最低

    2010.11.16 晴れ

    今朝はとても寒い。大津の最低気温は4℃以下みたいだ。比良山系では初雪を観測。現地のスキー場では約1cmの積雪だそうです。比叡山でのお勤めを想像したら目がギュッってなった。

    午前中、F社のページ制作。午後からはO先生のサイト制作。先日の打ち合わせで歯周病の下絵を描いていただいたので Illustrator でトレースしてイラストを制作しなければならない。こういう仕事を引き受けるようになると、Photoshop CS5 と Illustrator CS5 を購入しなければならないなあと思案。最新バージョンのCS5は使い勝手がよくなっているみたいだし。

    KDDIの広報がTwitterの公式アカウントを使って「IS01のアップデートについては、検討を重ねましたが、ハードウェア設計値、操作性、パフォーマンス等を考慮した結果、実現は不可能という結果になりました。 ご要望に応えられず申し訳ありません。」とツイートした。IS01は半年前に発売された機種でauが初めて投入したスマートフォンだ。OSはAndroid 1.6。このOSでは動作しないソフトウエアがある。「OSはアップデートする」とauは告知していた。その発言を撤回してOSアップデートのサポートをあっさり打ち切った。

    まだ詳細をリリースされていない。ひょっとして変更されるかもしれない。現時点ではKDDIの公式アカウントがツイートしたので「公式な見解」と受け止めてよいはず(伝達の手段がどうであれ)。

    auの対応は3点においてひどい。1. スマートフォンのOSはガラケーと違う。2. 2年縛りで販売しているのにその期間ですらサポートしない。3. 売れない端末を0円で投げ売りした。

    スマートフォンはガラケーと違う。スマートフォンは携帯電話と携帯情報端末を融合させた携帯端末だ。搭載されているOSがガラケーと違う。iPhoneならiOS, BlackBerryならBlackBerry OS, Windows PhoneならWindows Phone 7などがあり、Googleが Android を開発した。IS01には Android が搭載されている。

    スマートフォンのOSはメジャバージョンアップ(1.xから2.xなどへのアップデート)されると搭載機能が変わる。付け足される機能もあれば削れられる機能もある。OSのメジャバージョンアップによって利便性は向上する。反面、(ざっくりした表現ですが)パソコンのOSに似ているからセキュリティーホールが発見される可能性を含む(ガラケーのOSでもセキュリティーホールはある)。

    だからもし Android1.6にセキュリティーホールが発見されて2.x系へのアップデートが推奨された場合、これからauはどう対応するのだろう。開発のエンジニアの方々は、端末のスペックやauの独自UIを設計する時点でこういった事態を想定しているはずで経営陣へ留意していたと想像する。高度な設計と開発に携わる能力を持っている方々が「2年間のOSの進化とセキュリティーホール」を想定していないはずがない。

    今の携帯電話の販売モデルは2年縛りだ。僕は2年縛りで一度も購入していないので2年縛りの感覚を知らない。自分が買った端末に対して「OSアップデートしませんよ」と半年後に告知されたら怒るだろうなあ。残金を払い続けてもよいから乗り換える。

    3つ目のひどいのは0円の投げ売りだ。このツイートがつぶやかれる前、ちょうど4,5日前だったと思うけど、「IS01の月額8円生活」がネットで話題になった。「今、IS01が0円で手に入る。SIMカードを抜いて動かせば Android 端末が月額8円で運用できる」と話題になった(なかなか8円では思うようにいかずSIMカードを挿した人もいるみたいだけど)。

    まぁ、8円生活は別によいとして発売当初から秋葉原での惨状や販売状況がピックアップされていた。相当な在庫を抱えていたんだろうね。それを0円で放出して販売店によっては「売り切れ」になってちょっと祭りっぽくしてから、「OSはアップデートしません」の告知はいかがでしょう。

    IS01の対応にどうして僕は怒ってるのだろう。使ってないからどうてもよいはず。実際、別に僕が怒ったところでどうなるわけでもない。自分の怒りを分析したら怖いからだと認識した。現時点でのauの対応は最低と僕は評価している。

    でも僕も他者へ同じように振る舞っているかもしれない。それに気づかないことが怖い。 いくら周囲に対してオープンマインドでありたいと願ってそのようにふるまえるよう努力できたとしても、他者から指摘していただける機会は少ない。

    自分が弱いと自覚するのは怖くない。自分が無知であること、自分が気づけない状態に陥っていること、それが怖い。

  • 背骨

    2010.11.02 曇

    口内炎がひどい。9月頃から途切れずにできる。消えてはできる。口内炎ができると口臭が発生する。クサイ。かなり。ただ自覚できない。指摘してくれるから自覚できない口臭を感知している。口内炎ができると対人恐怖症になる。常にガムを噛まなければならない気持ちに圧迫され、ガムを噛んでいない自分に気づいたとき、あの人と喋っているときに不快な思いをさせたのではとあとから凹む。

    口内炎の上、一週間前から背骨が痛い。今日はついに朝から痛くて仕事ができなかった。座っていられず、立ってもいられず。じっとできないから部屋の中を動き回って、寝転んだり、ストレッチして過ごす。かなり痛い。

    最近、仕事の現場で感じること。「私が言いたいこと、と、私が言わなければならないことは異なる。99%は前者だからこそ残りの1%が輝く」と感じてきた。ひょっとして周囲の認識は反対かな。私が言いたいことが1%かも。

    僕の認識だと、”私が言いたいこと = 主語は私” – “私が言わなければならないこと = 主語は他者” の図式が成立しています。たいていは前者であって、私が言いたいことを発言して終わる。終わる、と書けば聞こえはよいけれど、終わる、ではなくスッキリする、あるいは満足するに近いかな。云いたいことは言った、満足。

    後者は異なる。「私が言いたいことは別にあるんだけど、この空間が必要としていることを言わなければならない。それは一体何だろう。”ほんとうに”言わなければならないことは」という感じで、”ほんとうに”がべったりとついて回る。しかもそのほんとうは私がほんとうに言いたいことのほんとうではなく、空間が求めている「何か」のほんとうは何だろうのほんとうだ。

    私が言いたいこと、が表現ならよい。茂木先生が書いていらっしゃるとおり「表現者は言い訳をしてはいけない、ということはさ、つまり、伝えることはディスコミュニケーションと不可分ということなんだよ。」なんだ。同定であるか自信はないけど、僕は表現する時、「100%伝わるわけがない」と絶望して表現する。絶望って言葉をかんたんに書いたらいけないけど、そんな気持ちをきちんと抱いて臨む。ただし自己満足に陥りたくないから自己批評の質を向上しなければならない。自己満足と自己批評を正確に往来したいですね。

    でも、仕事の現場は表現より会話や対話であって、どこかでちゃんと折り合いをつけたほうが効率よく進む。結果的にですが。だからディスを取り払ってコミュニケートが優先される。

    ただ、自分の認識を訂正しないと。いままで「伝える」という言葉を使ってきた。これは表現に分類されるかもしれないと最近思い始めた。表現に分類されるからディスコミュニケーションと不可分だし強くうなづける。周囲や本屋を観察したら「伝える」という言葉がどうもインフレーション気味だ。学位のインフレーションと同じくひとかどの人が単語を使えば言葉はあっというまにインフレを起こして価値が低下する。芳しくない兆候だと僕は考えているので、インフレーションからさっさと逃げ出す準備を始めている。

    「伝える」という単語が表現に分類されるとしたら、辞書的には同じ意味に近い単語を探そう。会話や対話に分類できて使い勝手がよい単語。模索中です。

    みんな普通をちゃんと装える。普通という糸をつかって普通を縫っていく。でも装った普通は必ず綻びる。綻び方はそれぞれなんだ。人間の数だけ綻び方がある。そして、その綻び方が「普通」じゃない。だから普通の人はいないんだよ。

  • 集中

    2010.10.27 曇

    ぐっと冷え込んだ。先週あたりから起床の明るさが変化してきた。薄暗い。徐々に変化してきているが気づかない。暗さを見たときようやく変化を認識する。それぐらい感度が低下しているわけだ。今朝はさらに暗く感じた。ラジオからは冷え込む様子が聞こえる。札幌のリスナーから雪が降っているとの報告を聴いて、こっちはまったく雪の気配なんてないのに何かつながってしまった。体感温度が2℃ぐらい下がった感じだ。

    終日、集中した。前日のサーバートラブルを復旧に費やした。サーバーからデータは削除されているだろうから悲観的な結果を想定して、次の手を考えた。ただ、100%やれることはチャレンジしてからあきらめようと決めたので作業にとりかかる。

    午前中、打てる手を調べる。思いつくキーワードを検索してサイトやFAQを読む。そこから収集した検索キーワードを拡張して広範囲を探索。その間にM社とF社のページ制作をしてメールのやりとり。

    午後、復旧の手順書を作成。まずローカル環境でテスト。古いデータをリストアして正常に動作するか確認。夜にテストを終了。あとは本サーバーを用意して本番。こういうときこそ焦らない。それが過去の失敗から学んだこと。早く復旧したい気持ちを強く抑えて明日の手順を確認。MECE。続きは明日。

    『喜嶋先生の静かな世界 (100周年書き下ろし)』 森 博嗣 がAmazonから届く。ステキな装幀。森博嗣先生の小説に惹かれる理由は単純。『すベてがFになる (講談社文庫)』 森 博嗣 からはじまるS&Mシリーズ、Vシリーズ、真賀田四季シリーズ、Gシリーズ、Xシリーズがすべてつながっているからだ。つながりは短編集にも及んでいる。ビジネスとして小説を書いていると公言していらっしゃるので、この「つながり」は優れた戦略だ。それぞれは1冊で完了する。だがその背後に広大な物語がある。シリーズのテーマが対になっていたりする。そして何よりも惹かれるのは「思考」である。「つながり」と「思考」に引き寄せられる。だからすべてを読んでいる。というより読まされているかもしれない。

    百年シリーズも大好きだし、Mシリーズ、Zシリーズも読んだ。スカイ・クロラシリーズのスケールはたまらない。集中して何度も読んだ。

    僕はS&M, V, G, Xシリーズをミステリーとして読んでいない。一つの物語として読んでいる。森博嗣先生の思考実験と解釈して楽しんでいる。

    「つながり」と「思考」を表現する先生の言葉は独創的だ。着眼と発想が独創的で思考が洗練されていれば、てにをはや文体に拘泥しなくても、それ自体がユニークの存在であり、言葉はそのユニークを伝える役割に徹する。

    村上春樹先生も同じで、僕は「一冊で完了するけど実はどこかしらでつながっている物語」の小説をどうも好んでいるみたい。ギミックを探すほど夢中にならないけど、「あれ、これひょっとして…..(つながっている)」って思う瞬間を体感できた時の自分だけの世界は楽しくて心地よい。数学の公式を暗記じゃなく理屈で理解できた気分みたいに。

    さぁ明日だ(今、この日記を書いている時点で結果は出ているけど時系列で表現したら明日。時間を往来すると混乱するがおもしろい気づきもある)。慎重にゆっくりと結果をだそう。

  • 領域

    2010.09.27 晴れのち曇夕方から雨

    09./26(日)の朝、09:00から放送されるラジオ版 学問のススメに内田樹先生が出演されていた。毎週聴いているプログラムなのに昨日の朝は08:55からソワソワ落ち着かない。オープニングで蒲田健さんが格言を紹介する。今回は「生きのびられる人は生きろ」?!(うろ覚え、間違っている可能性が高い)みたいな言葉だった。のっけからキツイのをチョイスしてるなぁ。

    ラジオで聴く先生の声はちょっと高めのトーンでわずかに早口。でも声がよくとおるので聴きやすい。笑い方がおばさんみたいでとてもほっこりした。内田先生がおっしゃる「コミュニケーション」の意味を伺うと「コミュニケーション」を吟味しないままコミュニケーションの単語を手軽に使ってしまっていると実感。

    O先生のサイト制作。写真を加工して思案しながらページを3ページ作った。暫定バージョンなのでこれから手直し。先の行程を想定しながら未来に発生する訂正が過去の部分を改変しなければならなくなっても必要最小限で抑えられるよう現在を対応しながら制作。

    ウェブサイトの制作はやり直しできるからか、二度三度できかないほどやり直しを求められることもある。それでは採算がとれないので注意。

    勉強した事項や講演会で聴いた情報、本で読んだ知識などをすぐさま誰かに出力したい気持ちが起きた時、一度冷静にならなければならないと己を戒める。自分が出力したい内容を第三者が出力したオブジェのように観察して、それらの形態を正確に記述する。私が出力したオブジェだから愛おしくしたくなる欲動を抑える。僕が出力したモノを己の感情から切り離してオブジェクトとして眺めてゆくプロセス。そのプロセスが認知の能力を鍛えると考えている。

    なぜ覚えたての情報や読んだばかりの知識を出力したくなるのか? 身体のすみずみまで行き渡らせて身体を動かして実感する前に出力してしまう。あるいは情報や知識の蓋然性を検証するための頭を使わず知識や情報に自分の解釈を加えてあたかも自分が実際に観察した現象のように処理して説明する。

    この欲動を抑えられない自分を掘り下げていくと、「自分が知りたいことと、自分に求められていることを混同している」状態を発見する。

    たとえば僕が出席する歯科医院のミーティングには自分に求められていることがあるはずだ。それを見失って自分が学習している事柄を開陳して相手の反応を知りたくなる。自分の学習プロセスを強化できるからだ。学習プロセスの強化は自分の役に立っても全体の役に立たない。相手は僕が何をしているかを知らないしわからない。

    自分が学習した成果を試したいしそれらを誰かに評価してもらいたい気持ちはよくわかる。第三者から学んだことをあたかも自分の見解のようにしゃべられたら清々しいし賢くなった気がする。

    出力は難しい。表現の仕方がよりどころだから。そして時間と場所と場合を判断しなければならないことだ。これは表現の仕方よりも難しい。メタの領域だ。