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  • 探しているものは内にある

    2013.09.10 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=gkS7fJN0vRA]

    “夜はミカタ” 青谷明日香 に収録されている route。この間、アルバムを聴きながら本屋の本棚とお見合いしていると、不意にこの曲がものすごくリアルに入ってきた。何度も耳にした音と歌詞がまったく異なった質感へ変化した。落涙しかけた。慌てて本屋を飛び出したんだけど、あの”リアル”な感覚がまだずっと残っている。

    暑さが忘れものを取りに帰ってきた、天高し。迷子にならないでほしいが、忘れものを忘れたらしく、思い出そうとしばらくぐるぐる探し回るようで、大気は熱を帯びる。蒸す、っとご機嫌ななめ。はやく見つけてほしい。

    「世界へと つぶやく前に 周り見ろ」と中学生は川柳をものす。素敵だ。つぶやきだけじゃない。文字が安堵をもたらす充足の空間。出力された文字を目にして、誰かの思考の痕跡と自分の徒然を乾杯して飲み干す。飲み干して酔う。醒めてもとへ。

    机の上にいつまでも置いてあるライヴのチケット。行かなかったチケット。初めての自主的キャンセル。何かが変わっていく。が、何かは不明ゆえ探しに外へ出る。見つからない。探しているものは内にある。あると直観しても、内側を探究できない優柔不断。

    優柔不断はもうすぐ終わりそうな感触。初めてのことに対する反動だ。反動の大きさに比例? 反比例? してる。振り子が反対側へ振れる時間がいつもよりずいぶん要した。礼文島から与那国島へドライブするような気分。辿り着けば、長い夢から覚めてひとつの現実を直視するだろう。

    アルバイトの資料を返送するために郵便局へ。郵便局の往復と散歩。公園へ紛れ込む。誰もいない場所。X-E1をかまえてファインダをのぞこうとしたら、眼鏡の内側に汗がしたたり落ちた。眼鏡をはずして拭きとる。睫毛のロッククライミング。ごくたまに長い!と驚かれるけれど、よくそんな部位を見ているなと逆に感嘆である。

    静寂と沈黙は何が違うだろう。芝生に座って生暖かい微風を浴びる。目と耳のラジオ体操。音の仕組みを勉強しておくべきだったと舌打ちしてしまうほどの音がぐるり聞こえる。空気の振動って単語だけが雲の上に浮かぶ。

    静寂は伝わり、沈黙は伝わらない。

    そんなイメージを描く。どうして? の自問。静寂は感じられるけど、沈黙は感じられない。ならば想像の差異? 「想像」はことばの空間を満たしすぎている。だから削った。「想像」は大切だけど、想像を口することが解であると誤解しかねない。「想像」ではなく、「想像という単語」は次への進化を妨げる。削ってもう少し潜ってみる。静寂は受動、沈黙は能動。浮かぶイメージ、掘っていく単語。連想、拡張、並列、修辞を往来してイメージを表現できる文脈をつくる。

    途中でまたあの問題へ入る。迷宮。解けない問題。自分を一歩引いて見たときの自分をさらに一歩引いて見たときの自分をさらにさらに一歩引いて見たときの……自分の無限後退。屁理屈ではない。一歩引く感覚があるから言葉にできる。なのに無限に後退していく感覚はない。

    無限に後退していく感覚はなくて、あらゆる事態を想定せよは乱暴な物言いと思える。一歩引いた程度の視点から見える「あらゆる」は狭いはず。

    感覚を連れ添えない表現を口にする。他者に対して傍若無人にならないけれど、自身には傍若無人になれる。それぐらいでないと、なにもしゃべれない。

  • つながりが息をひそめる

    つながりが息をひそめる

    2013.07.30 薄曇り、蒸し暑い

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=OFGgbT_VasI]

    Bob Marley – redemption song caustic でスタート。“想像ラジオ” いとう せいこう で登場している。アコギのナンバ。異色、そして遺作。詞が叫んでいる。奴隷の精神から自らを解き放て、自由を取り戻す歌。

    サイト制作。途中、コードを思い出せない。あかんやろ、それ。サイト制作以外の比重が少し高まった自分に困惑。何屋なの? 肩書きのない、異端サイズの、名前と電話番号とメールアドレスだけの名刺。裏は琵琶湖。やっていることは羅列できても一言で言い表せない焦りの質感を包む。

    歯の定期健診が近づくとできる口内炎。何だろこの癖。今回は二つ。刺激物な珈琲ガブガブ、ひとりSM。

    夕方、散歩。ぼんやりの稜線。見ているようで見ていない山。緑。ピーマンな緑、胡瓜グラデーションの緑、そのなかにジャガイモな茶や土にまみれた蓮根的色彩、かと思えば、水栽培レタスらしき鮮やかな緑、ひょっとしたらアボガドかもな色、とかパプリカ系は見当たらない山。

    見えているようで見ていない。生理的暗点と自ら作り出している盲点。散歩は視覚を研ぎ直す。

    コンクリートを踏むDr.Martens、足が上がらなければつまづきそうな”ズッ”を聞き、高湿度コンクリートを嗅ぎ、山手の公園で音色が変わり、野生の紫陽花のプログラムを確かめる。

    雑草の上を躊躇いながら歩き、躊躇わず歩く落葉の上。異なるかすかな感触。擦れる濁音。非運動系の汗はさらり流れず皮膚の粗目にしがみつく。裸足、土、こそばく痛がゆい。

    三井寺
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    書くことが好き。ここの駄文でも書いていたい。でも練習の練習みたいな言葉のための言葉は書きたくない。上滑りの言葉は嫌だ。

    もっとうまく書けるようになりたい、もっと。どうしたらいいんだろうってずっと考えている。“書くことについて (小学館文庫)” スティーヴン キング なら、たくさん読めだ。それはキングの解であって私が絞り出した体液じゃない。

    まだ言葉のための言葉を書いている。もどかしいね、ほんと。

    半径1km以内の出来事から感じることを記述して、地球ぐらいの射程距離で思い巡らす。矛盾しているかもしれない。

    言葉をもっと削り沈黙しなければならない。沈黙すればつながりが息をひそめる。

    書くために沈黙して自分の気持ちと対峙する。同時に、つながりが息をひそめる恐怖と向き合う。

    今日も忘れず1,2分ほどの”習慣”をクリア。この習慣は絶対に忘れたくない。もう自分の中で何かの礎になりつつある。

  • 時は円環

    2013.06.15 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。夜のライヴで聴けてよかった。ホロホロ、トロントロンになった。

    アルバイトの資料が届いたので、15:00頃まで入力。雨。ひさしぶりのまとまった雨。待っていた人がいて、焦がれていた植物がいる。

    からりとした雨は気持ちの隙間に滴を落としてくれて潤いを与えてくれる。高い湿度の雨は隙間から溢れてしまいそうで、わずかにつらい。今日の湿度は高そうで濃密。これから湿度が高い日が続く。見えない誰かに皮膚を触れられている感覚が全身に残って留まっている。

    16:00前に大阪に出発。奇妙くんのライヴ、関大前。吹田で降りて阪急へ乗り換えるか、梅田まで出るか迷ったけど、雨の中歩くのは勘弁と即決、早めに出発、梅田でぶらぶら。と思ったら土曜日の梅田はたいへんな人出。

    14年前に東大阪から滋賀県に引っ越して、外から大阪を眺める。大阪駅周辺は変貌している、着実に確実に。いまの状況に加えて阪神百貨店や第1ビルから4ビルあたりが再開発されたら、昔の面影はすっかりなくなりそう。昔からの面影は御堂筋口の新梅田食堂街へ渡る横断歩道ぐらいか。

    自分の中にある心象は記憶に刻み込まれて自分の都合の良いように編集される。自分のなかにある大阪のイメージは強固だ。目の前の映像が更新されていっても記憶の映像は古き良き時代風に編集される。

    雑用をすませて阪急の列車時刻まで大阪駅周辺の景色を眺める。歳をとる、を実感した。自分の中にある映像と現実の映像が一致しなくなり、書き換えなければ追いつけない。書き換えたくない気持ちがゆれ動く。未来への期待と過去への寂寥が手をつなぐ。

    “脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)” 金井 良太 によると歳をとるにつれ人は保守的になるらしい。仕組みの説明があった。保守、の意味に引きずられないようにして気持ちを観察したら、そういう傾向は否定できない。変わって欲しくないモノへの哀愁、新しいモノへの不安、移りゆく営みへしなやかに応じられなくなってきた心身の体感。

    非常ボタン

    18:30の開場。カフェレストラン。すでに十数人以上の人が食事していた。そっか、ライブハウスじゃないからかなりアバウト。

    19:00スタート。全身全霊、唯一無二の表現を受けとめながら感じた。過去と現実と未来は直線ではない。円環だ。周るようにいまも過去がありまだ見ぬ未来が過去をたぐり寄せる。

    アルバムの曲とは思えないアレンジ。前回聴いたはずなのに、同じ曲に感じられないアレンジ。ライブの一回性。一期一会。

    ひとつの区切りをつけられた。気持ちに線を引けた。

    出会いと別れ。二つに区分すれば出会いもあり別れもある。区分するから出会いと別れにまつわる気の利かない名言が多く残される。区分しているのは自分だ。出会いと別れに拘泥していたら、ただ一度きりのなかに隠れているずっと記憶に刻み込める宝物を見逃す。

    不意に現れてそっと去って行く。

    出会いも別れにも拘泥しない、ありのままあるがまま、いま立ち止まっている時と場所、一瞬の時と場所、たくさんの時と場所に運よくいっしょに立っているそのものを味わえるようになれたらと感じてライブ終了。

  • たとえ相手が怒りの起点でも最後は自分への怒り

    2013.06.03 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=x1oMPNya0cI]

    ソウル・フラワー・ユニオン – 風の市 でスタート。高揚させてくれる音ってあるよなぁ。歌詞は切なくても音が軽やかだったり。反対に歌詞は顔を上げて見据えているのになぜだか音はやや抑え気味みたいなのも。音楽って不思議だ。

    怒り、について考え続けている。怒りの根本や怒りの脳研究について一冊読んでみたくなる。主観を掘り下げられても何か足りない。

    幾つもの怒りがある。状況によって怒りの濃度や種類は異なる。激怒、憤怒、立腹…. 漢字もいろいろ。ニュアンスを広げたら、嘆息や嗤笑にも怒りの匂い成分が入っていそう。

    誰かが起点になって怒りを誘発したら、当初の怒りは相手にむけられたものだ。でも、私の場合、その怒りは直に収まり、どちらかというと自分に対する怒りが長く続く。

    相手に頼ってしまったがゆえに、自分の描いていたとおりにならなかった腹立ち。もし、自分の想定しているイメージにコトを近づけたいなら、相手に頼るべき点をもっと絞らなければならない。自分がコントロールできたであろう範囲を自分がサボったから招いた結果に対して我に呆れている。

    信用、という言葉は健康的なイメージを従えている。そういったイメージを払拭してシンプルに使うとしたら、相手を信用した自分に対する怒り。

    皇子が丘公園

    もう一つ気づいてほしいのは、自分の周囲の環境が悪いのは、これまでに自分が手を打ってこなかったからだ、ということ。だから、すぐに手を打っても、それが改善されるのは、ずっとさきのことになる。この種の挙動は、「社会」でも「他者」でも同様だし、もちろん「自分」についても当てはまることである。

    “自分探しと楽しさについて (集英社新書)” 森 博嗣 P.140

    再読。「自分」にも当てはまる。手を打ってこなかった。相手の成長(苦手、正直意味がわからない)へ関与したい欲求があったはず。欲求はやがて支配と通底する。

    相手のふるまいが私の心象とずれる。心象にそぐわないふるまいを受ける。現実と心象のずれを知覚する。知覚は支配の基底に到達して怒りのボタンを押す。ずれをずれのまま処理する機能が発育されていない。なんのために先人の知識をインストールしているか、己の未熟を味わう。

    幼すぎる自分。未熟。他者へ関わるのは他者の成長や進化に手をさしのべることではない。他者をそっくりそのまま他者として受け入れ、どこまで輪郭を広げても理解できない他者の有り様と向き合い自分の中でほぐしていくことだと思う。

    自分の「色」に染めるような気持ちを微塵も持ってはならない。微塵はいずれ塊になり怒りの核に居座る。そうなれば私の進化を妨げる。

  • 肉体は老い身体と心は進化する

    肉体は老い身体と心は進化する

    2013.05.07 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=9cRbRE9sS_s]

    奇妙礼太郎 – California でスタート。ずっと聴いている。今日も舞鶴まで連れて行った。奇妙くんはライブでアレンジするからCDとまったく異なるしそれぞれのライヴでも違う。先日、SNSでトークしながら頷き合っていた。6月のソロライヴ。カフェでのライヴ。いまからドキドキワクワク。

    5月、5月?! 肌寒いより寒い。立夏、暦では夏の始まりだけど、今日の季節は春先へもどりたがっているみたい。人の記憶は過去に遡れても季節は逆再生できず、人の営みも季節と同じく直線と曲線と弧を描きながら漸進していく。

    一本の桜の木。琵琶湖疎水に咲き乱れる桜から意志を持って離れているかのように存在している桜の木。ひとりで見に行っていたのに、今年は見に行かなかった。ものすごい悔やんでいる。久しぶりの大きな大きな後悔。

    来年も見られると思わないようになりつつあり、絶景と観光地に関心は薄れていくが、半径1km内で繰り返されている自然のプログラムを見ておきたいと感じはじめている。あとは、どうしても行っておきたい土地がひとつあり、そこだけは何があっても必ず行くと決めているし、決めているだけではなく、思い立ったらすぐに行かなくちゃいけないよ、と自分に毎日言い聞かせている。

    shrine
    *FUJIFILM X-E1 *FUJINON XF35mm f/1.4

    朝から舞鶴へ。道中、奇妙くんをずっと聴いていた。 “二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)” 谷川 俊太郎 をぱらぱらめくりながら目に入る文字を追いかける。追いかけて、顔をあげて車窓を眺める。詩と車窓を行ったり来たり。山間の緑のグラデーションにフジが単色を彩り、場違いか溶け込んでいるか、自分には見分けがつかない。この情景を言葉にする人はどんな文を綴り、絵にする人は何色で、写真を撮影する人の構図はと空想して、何もしない人は何を感じるのかな、つらつら緑と紫はスライドする。

    15:30すぎに終わり、亀岡まで移動。帰りの道中、仕事と四方山がクロスした会話は車両の進行と合わせるかのように前へ前へ。会話の時間軸は季節と同じく、直線に進み踵を返さない。できごとを語る時制は過去であるけれど、話の意図が向かう時制は未来。

    18:00から久闊を叙する。5人が集まり今と昔を行ったり来たりする。周りの方々の話を伺い、自分の役割を見つめ直す。お相伴に与りながら、成功へ近づきつつある人たちを前にしたときにうろたえる私を認識する。平常心からはまだまだ遠い。

    今より昔を語る質量が増加したとき、人は自分の年齢を数える。もう少し経てばからだの話が質量の中心を占め、病と健康の単語の使用回数が45度以上の直線を描く。

    肉体は老いる。身体と心は進化する。そんなイメージを持っている。年齢より鮮やかに演出するために肉体を手入れする。大事なことだ。ただそれに苦心するあまり、身体と心が退化してしまったとき、動く塊になるかもしれないと怖れている。

  • 素直に営む

    2013.04.27 晴れ

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FWXyMppJWjA]

    奇妙礼太郎 – あなたただひとり でスタート。前夜のライブの余韻が残ったまま、手に入れた HOLE IN ONE を iPod へほりこんで、リピートリピート、リピート。もう、追いかけますよ、これからずっとずっとずっと。サイコー!!!!!

    前夜、奇妙礼太郎くんのライブへ行った。SNSで知り合った方から教えてもらい、YouTubeで視聴して、一瞬で鳥肌が立ってざわざわしてそわそわして、CD買って、また視聴して、何度も聴いて、歌詞を熟読して、列車のお供に連れて、部屋でまったり聴いて、の生活があって、ライブへ行きたいと思っていたら、弾語TOUR 大阪追加公演してくれたので、行ってきた。

    はじめての生声を聴いて震えた。Twitterのほうでもさえずったけど、ライブで泣くことってあると思う。涙は、好きな人や辛いこと、楽しかったこと、いまの想いや、あのときの思いとか、いろんな ‘何か’ とリンクしている。その何かは人の数だけある。

    はじめて知った。ただこぼれる涙を。喜怒哀楽ではない、眼瞼からこぼれる涙。その涙を表現する語彙をまだ僕は持ち合わせていなくて、これから奇妙くんのライブで探していくことになる。そう思えるだけでざわざわして、唯一無二の声に集中しようとしたら、あの苦しそうな、喜んでいそうな、軽やかな、激しくて、優しい、躍動感にあふれる口に集中できなくて、口に集中したら、歌詞に没頭できない、歌詞に傾けたら、あの指を見られない、首筋にも目をむけないといけないのに、全身へのめり込まないといけないのに、ってもどかしさが募る。

    ほんとに行ってよかった。教えてくれた人にTwitterでお礼を述べた。∞のありがとう。

    ユキヤナギ

    11:00前に出発して神戸へ。院内LANの設定。前回は失敗したのでやや緊張モード。失敗の原因は判明している。ただしこちら側で解決できないので、ハードウェアを管理している業者さんへ設定の変更を依頼した。こういうパターンの仕事は苦手。原因は判明していても、解決手段はこちらない。もし、私の依頼した内容が正確に伝達できていなければ、院内LANの接続は失敗する可能性が高い。

    心音高鳴るなか、13:00から設定をはじめて、15:00前の終了。1点だけ解決できなかった。私にはどうしようもない問題だったけど、先生はその問題解決をもっとも強く望んでいらっしゃったのでマイッタ。どれだけもがいても、こちらで解決できる事案ではないので、私から業者さんへ依頼することで了承を得た。

    子供の頃から人への好き嫌いがありすぎて、親から注意されて、先生からも諭されたけど、やっぱりいまだにありすぎる。ほぼ直感で好き嫌いを仕分けしていて、嫌いは瞬間って感じの嫌いだし、大体、はじめてに近い状態で、あっ、ダメだみたいに感じる。ようやく露骨に顔に出さないようになってきたと自分では思っているけれど、端から見たら酷いかもしれない。

    ところが自分でも驚いたことに、徐々に嫌いになるってあるらしい。たぶんこれまでもあったのかもしれない。知覚できていなかっただけもしれないけれど、いまはあきらかに認識できている。

    自分のなかで発生したこの認知の過程を自分で分析できないけれど、自分にとっては好機であり、できるだけその時々に脳裏によぎった言葉や気持ちを備忘するようにしている。

    SNS界隈は、大人って…..についてあれこれ綴られていて、みんなそれぞれの悩みや思いや、苛立ちや不安や期待や、願望がある。100年ぐらい前の41歳は、ひょっとしたら隠居しているかもしれないし、いまの自分のように未熟ではなかっただろう。数年前は未熟や成熟、大人って…..ってみたいなことも患っていたが、いまはだんだんなくなってきた。よいのかどうかわからない。それよりも「素直」についてもっと探究してみたいし、もっと素直に営んでいきたい。

  • 思考と感性よりも、目で見たモノがすべてと思い込む

    2013.04.24 雨

    [youtube:http://www.youtube.com/watch?v=FcWGdkoo0Fs]

    東京スカパラダイスオーケストラ / Pride Of Lions でスタート。めっちゃすき。日本語訳の歌詞も好き。掃除や洗濯でこれ流すと、体が勝手にスイング、朝からアゲていけそうな錯覚だし、凹んでいるときにながせば、眼瞼の裏にためこんだ水分をからりと流してさっぱりできそうで。

    SNSの環境が日常になったときに、情報は一瞬で伝達される。ボストンマラソンのテロでは、大手のメディアは時速でSNSに遅れをとった。テレビや新聞を中心としたメディアは、速報や即時についてこれからもずっとSNSに追いつけない。追いつく必要もないと思う。

    一方で、Twitterのアカウントがハッキングされてデマが流され株価が一瞬で暴落するようになった。

    バスのなかで障害者の子供と母を罵倒する乗客がいて、その乗客たちを運転手が一喝して降ろさせた、なんてデマが一瞬で「いいね!」されてフィードに流れてくる。

    1999年に購入したマクドナルドのハンバーガーを14年もの間保存し続けるとこうなる(GIGAZINE) – 海外 – livedoor ニュース を目にして、見たモノがすべてを味わった。

    写真を見て疑ってみること。包装紙とレシートが1999年だとしても、なぜ「中身のハンバーガーまで1999年」と判断できるのか? パンがなぜあんなにふっくらしているのか? 水分は? 黴の発生メカニズムは? などの疑問が浮かぶ。

    「いま」「ここ」で撮影したかどうか判別できない写真であったとしても、見る側は、「いま」「どこ」の視点から視線を送る。何かの記事で読んだが、Facebookでたまたま豪勢な食べ物の写真がアップすると、贅沢な生活しているように人は受けとめたりするようだ。

    タイムラインに流れてきた食べ物の写真へ、「こんな時間に食べたら太るよ」とかのコメントが寄せられている。深夜にアップされていたからだ。

    この感覚が普通なのかもしれない。ウェブサイトの制作でも参考にしなければならない。少数の疑念より多数の誤解が「正解」なら、時にその正解を採用したページを作らなければならない。

    ユキヤナギ

    ネットの情報でも鵜呑みされてしまうんだから、編集されたニュースの映像を見て喜怒哀楽を表現する人は多いだろう。向こうは編集のプロだ。意図や願望、希望や期待をインストールして編集している。一般的にプラスのイメージを伴う単語を使ってみたが、そんな微笑ましい様相ではない編集があっても不思議じゃない。

    そして、何よりも一番恐れているのは、自分だ。「自分はいったん立ち止まって考える」から騙されない、引っかからない、と自覚している時点で、すでに騙されて、引っかかっていると思ったほうがよい、と自戒している。

    「騙されない」「引っかからない」という視座からしか物事を眺めなくなる。

    視座と視点を固定させて、いつのまにか、その定位置にこだわるようになってしまうと、環状線の縦座席で駅弁を食べたら違和感があっても、新幹線の横座席で食べてもおかしくない、と納得してしまう感覚が養われている。なかにはどちらもおかしいと言う人がいたほうが、僕は健全だと思う。

  • 最小単位は二人

    2013.04.07 雨時々曇

    今朝は サヨナラCOLOR – SUPER BUTTER DOG でスタート。歌詞は過去と結びつけ、自分が感じたいように感じ、喜怒哀楽をブートさせる。具体的な物事や記憶の輪郭を少しだけぼかして、誰にでもあてはめられるような言葉に置き換えられたら、それは多くの人が自分なりに受信できる「言葉」へ変容する。この歌詞もそう。自分の過去と現在に結び付き、たゆたう。

    「普通、孤独は1人のものだと思いがちだけれど、私は孤独の最小単位は2人だと思うんです。1人よりも2人でいるとき感じる孤独のほうが何倍も深い。でも、2人でしかできないこともたくさんある。2人でいれば、可能性が放射線状に広がっていく。2人でいるときの1人のときよりも深い孤独と、2人でいるからこそ見ることができる「次」、その情景を書きたかった」

    SANKEI EXPRESS 2013.04.07 本の話をしよう 「愛の夢とか」川上未映子

    雨と風が鳴っているなか珈琲を飲みながら読む。頷いた。頭のもやもやをすっきり。言葉のプロ、物語を描くプロの力を味わう。

    最小単位は2人。

    ひとりでいれば孤独を感じにくい。感覚は孤独より孤立に近いんじゃないかな。ひとりの時間に培われた感覚や直感や、考えていることを、2人、あるいは複数の「円」へ運び込んだとき、孤独を実感できる。それは僕にとってネガティブではない。独我論の絶望(これもネガティブなニュアンスを持っていない)のなかで、自分が見たいものしか見られず、目の前にいてる人が、僕と同じものを見ているとは思わない。その様態を理解できたとき、健全な深い孤独がある。

    健全な孤独から他者への関心がはじまる。なぜ同じ世界を見ていないのか? 素朴な疑問。

    素朴だから解き方がわからない。どこから解けばよい? 解はそこらへんにころがっていない。ならば書を頼りに知識の空間へ足を踏み入れる。そこは他人の世界である。歌詞と同じく、一般化された事象を自分なりに解釈して納得する。納得できなければ、空間の奥地へ進む。他人の世界の奥地へ進む。納得できるまで。

    他人の世界の奥地へ進み、あちこちに立てかけられている道標の前に立つ。道標は知識であり、知識は思考の種子だ。種子が欲しくていまだに彷徨うけれど、思考は名詞なんだ。

    IDEOは動詞を観察する、という。人や物を観察するとき、名詞ではなく動詞を観察する。

    近江神宮

    考える。動詞だ。考える、ことは他人の世界の奥地にある道標を拾い集めず、自分の世界に道標を立てていく行程だろう。自分の世界の道標は、自分の世界でしか通用しない規則や言語がある。

    二人が見ている景色が違う。そんな実体へ素朴な疑問をぶつけ、疑問を解くために「自分」へ突き進む。自分だけの規則をつくり言葉を組み立て、自分だけの景色を描く。その空間に果てはない。でも、果てをめざす。

    果てをめざしていくなかで、「自分」そのものへ疑問を持つ。少しずつ少しずつ「自分」へ膨らむ不思議。

    いまはわからない。感触としてつかめているだけ。僕の土壌に五感の種子を蒔いて「考える」なかに「自分」があり、「自分」がどんどんわからなくなっていけばいくほど、「他者はわからない」ということへの不思議さは薄れていく。

  • 口の尊厳死

    2012.04.25 晴れ

    今朝は、Beatles – Let It Be でスタート。死の実相が情感に語りかけてきたときに聴く。隣人が無に帰すれば有限から無限への交替は蠱惑的なまなざしをむけてくるのだろうか。その時の自分の足は空気に喰われている。

    Dr.Martensの手入れをしながらかかとを確かめる。外側へ向けてすり減っている。左右とも。ひどい蟹股で歩いているらしい。格好の悪い話。街ゆく人の歩く姿に目を奪われる。美しい立ち姿。「正しい」姿勢と「正しい」歩き方を知らない。ただ自分の感覚のスイッチが押されただけ。

    手入れをしながら100年後の自動車を想像する。登録された生体認証でしかエンジンは作動しない。一定時間ごとにハンドルから生体認証の信号を受信する。あるいはハンドルはなくなっているかもしれない。もし別人が運転していたら、AIは周囲の状況を計算して安全を確保してからエンジンを停止させる。走行中の車間距離制御は当然。生命体への衝突を完璧に回避する制御システム。

    もう少し先ならどうだろう。体内にインプラントしたIDは運転手の状況をワイヤレスで自動車のAIへ送信する。AIは乗車の是非を判断する。違うか。その頃になれば、もう「運転手」の定義は書き換えられている。運転しなくてよいかな。

    描く映像へ到達するまでの道のりは長い。究極の個人情報の提供や走行の「自由」を奪われかねないことへの抵抗は激しいだろう。技術と制度と知性の3つが大衆を説得するまで起こりうる事象は人から奪い続ける。

    少しずつ漸進していく様を静かに見守り、淡々と参加する。数年先の将来は悲観して数十年、数百年先の将来は楽観する。懐古趣味はない。昔を礼讃するほど昔を知らない。

    16:00過ぎに出発。大阪駅で下車。“感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)” 高橋 昌一郎 を購入。自宅から持ってきたコーヒーを飲みながら読書。その後、移動。目的地二つ手間の駅で下車。徒歩。

    歩きながら、複式簿記を考える。資産が身体、負債が心、資本は命としたら、収益と費用はなんだろう? 収益は脳への報酬として費用は何だろう。あるいは収益を脳への入力、費用は脳からの出力としたら、貸借対照表はどうしようか。いままでためてきた内部留保をこれから食いつぶしていくんだろうなぁ。

    資産の身体を駆使して負債の心を返済する。心の返済とは静謐と安定を保ち続けること。さっぱりした生活の糧。今の状況をB/S・PLで算出すると、身体を使って心の返済ができず借入が増えていそう。

    我ながら暇つぶしのテーマが浮かんで35分ほどの道のりもあっという間。もう汗ばむ気温でやや閉口。

    19:00からF先生のミーティングに参加。イメージしていたようなファシリテーションができなかったのでご迷惑をおかけした。そろそろシステムを完成させて運用に入らなければ。議論のテーマが拡散している。僕がカテゴリーを分類して、要点を抽出して高効率の議論の枠組を提示しなければならない。

    他方、議論の拡散がよいアイデアを生む。今回の一部もそれにあてはまる。だから杓子定規にファシリテーションしたら発想の萌芽を摘む。拡散が認識を更新する。個々と集合体の差異を言葉で表現できるようになる。言葉で表現できるようになれば、あとは方法を実装したら解決できる。実装は僕にまかせてもらえたらOK。

    21:00すぎに終了。その後、先生とK先生、Tさんで食事へ。23:00でお開き。つくづく思うのは時間。時間の軸、というかspan, view, perspective。時間の幅と視点をどれだけ広くとれるか、そして観点の変異をいくつもてるか。長く広い空間に身を置くと茫然自失の私と出会える。先生との食事は、その私との出会いを仲介してくれる。

    深謝。

  • 傍観者

    2012.03.29 晴れ

    今朝はSalyu – 青空でスタート。あなたを足さないとね私は空っぽ、てとこがお気に入り。空っぽになれるならなりたいなぁ。空白を空白のままにしておけないのが人の性。

    昨日に続き胃と頭が痛いので絶食。昨日の夕食から絶食して水分だけ補給。朝食、昼食もたべなかったので三食の絶食。午前中、悶絶。13:00ごろからようやく胃が落ち着いてきた。めちゃくちゃな自己判定の自分だけの療法なんだけど、身体が不調のときは何も食べず水分だけ補給して身体をじっとさせてやすめるようにしている。

    14:00からC社のH氏とウェブサイトの打ち合わせ。数個の現象を認識。認識した現象の内容を再生して自己検証してみよう。話題が少し脇道にそれたとき、歯科医院の自説について論じ合う。いまから大学をめざす、あるいは通学してらっしゃるかたは、歯科医院を開業するにあたりゆるやかなリンクを考えてもよいのでないかと思う。ふみこめば資本提携が視野にはいる。業態の進化もある。女性の歯科医師を意図的に増やしている施策についてH氏から伺ったとき、自説を修正した。自分に素直になったとき、医業と経営の分離を勘案してもよいタイプの人もいらっしゃると想像する。

    16:30で終了。いっしょに大阪へ。電車のなかで仕事とちがうお話しを伺い胸が痛んだ。偶然は人に激烈な痛みを与える。痛みは肉体のみならず。精神にも及ぶ。不可知論に近い私だけど残酷な仕打ちがあるなと辛かった。祈り。

    大阪駅で途中下車。ソフマップでサーバ用のメモリを購入。4GB×2=8GBが3,500円なり。おそろしい時代になりました。FBでふれたが、先日購入したHP製のなんちゃってサーバが22,800円。先日、アップルストア心斎橋からピックアップしてきたMacBook Pro(late 2006)の修理代は40,950円。感慨深いものがあります。

    19:00からF先生と打ち合わせ。診療のシステムを再構築。K先生とTさんも参加。素人の私が理解できる内容で助かった。フローチャートを明確にできる手応えあり。あとはドキュメントの作成とツールの整備。ユニークのシステムとは誰がやってきても理解できる環境である。特定の人にだけ通用する排他的なロジックではない。

    F先生のおっしゃる環境のお話しが好きだ。

    環境を整備しなければ人は能力を進化できない、と僕は思う。(環境の整備に苦心しているのに)こちらが想定しているような進化が見受けられない現象はある。とはいえ環境整備を怠っているのに能力の停滞の原因を当人の技能に置換して他罰的にふるまう傾向が強い、と昨今の世相から感じる。

    ユニークのシステム構築は長い時間を費やす。極めて大きい労力を要する。おまけにオリジナルのコンテンツを育てていなければユニークなシステムは生まれない。

    21:00に終了。それから4人で食事へ。音について少し盛り上げる。隻手音声や誰もいない森の中で木が折れた音、そして人の声。9年前、はじめてF先生の医院へ訪問したとき、静かな院内に驚いた。いまは少しうるさくなったとおっしゃっていたが、僕は静かだと認識している。ただ、静かでも質感が違う医院はあると思う。

    静かにも心地よい、ゆったり、くつろげる、はりつめたなどの静かがあれば、不気味、そわそわさせる、圧がかかる、人をよせつけないなどの静かなどもある。

    僕はできるだけ科学を拠り所にして事象を判断したい。でも、上に書いた「音」に対する記述はオカルトと批判されてもしょうがない。自分の場合だと、「音」に対する受け止め方が音を生じさせる環境に対して嫌悪を判定させる。声に対する第一印象と似ている。

    なんだかよくわからない察知ってあるんだろうなぁと思う。オカルトだと承知している。

    東日本大震災の野蒜駅での悲劇。上下二本の電車の応対は180度違った。どっちが正しかったという問題じゃないと思った。上りの乗客の数名は亡くなり、下りの乗客は全員助かった。これも科学で説明できるはずだ。そう願う一方で、その「分け目」の判断の源泉はなんだかよくわからない身体の知性だと認識している。

    そういう矛盾を「音」に対して抱いている。

    環境と人は互いに刺激を与えて更新していく。「中にいる」存在の自己産出。「中にいる」存在は外部から観察する視点を所有しにくい。客観に近づく努力は怠らなくても、主観の「境界」を越えられない。

    環境を閉じて内部だけ更新させてしまうとドグマに陥りかねない。他方、環境を開くとコントロールできなくなるかもしれない。僕は「中にいる」存在ではなく環境と人の更新を外部から常に観察して「状態」を伝達する傍観者でありたい。